
日本の資本主義の父と呼ばれている渋沢栄一。
渋沢栄一の名前は聞いた事あるけど詳しくどんな人物だったかはご存知ない方も多いかもしれません。
今回は渋沢栄一についてご紹介して行きます。
渋沢栄一とはどんな人物なの?
渋沢栄一は天保11年(1840年)富に恵まれた農家の渋沢市郎右衛門の子として生まれてきました。
昭和6年(1931年)の92歳の大生涯を閉じるまでの間にさまざまな企業設立に携わってきており、実に500社にものぼる企業を立ち上げてきた方です。
そして600ともいわれている公共機関・社会事業に関係しており稀代の天才実業家とも呼ばれています。
渋沢栄一の生家は
渋沢栄一は江戸時代後期の1840年に現在の埼玉県(さいたまけん)深谷市(ふかやし)血洗島(ちあらいじま)に誕生しました。
地名の由来ははっきりとしていませんが諸説では血洗島村という名が記されています。現在でも旧渋沢邸「中の家」が深谷市血洗島にあります。
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上記の旧渋沢邸「中の家(なかんち)」は栄一の姉夫婦により明治28年に上棟された建物です。当時渋沢栄一が忙しい中帰郷して来たときに立ち寄り、寝泊まりしていた場所とされています。
【渋沢栄一】1867年に転換期
慶応3年(1867年)当時28歳に15代将軍・徳川慶喜の弟である昭武に随行してフランスに渡ります。
渋沢栄一にとって見る物すべてが西欧文明社会は驚きの出来事ばかりでカルチャーショック(異文化に接した時に受ける精神的な衝撃)を体験したと言われています。
しかし渋沢栄一はこのショックを飛躍のパワーに換えることが出来ました。
持ち前の好奇心とバイタリティでこれからの新日本に必要とされる技能や知識を誰よりも貧欲なまでに勉強し吸収したと言われています。
そして今後の日本に必要とされる工業力と経済力は欠かしてはならない物だと確信をもっていました。遊学を終えて明治元年(1868年)29歳に帰国してきました。
【渋沢栄一】日本で最初の株式会社を設立

帰国後、渋沢栄一は日本の社会の改革に向かって一途に歩み始めます。
日本で最初の株式会社でもある商法会所を設立しました。
そして明治6年(1873年)34歳で第一国立銀行を創立して総監役(頭領)に就任します。
渋沢栄一は個人主義に基づく利潤の追求ではなく国民が自立できるように、国を発展させるといった次元の高い理想を掲げ機能を発揮させるための合本組織(株式会社)を作りました。
以後、各種の事業会社を起こしていき偉大なる実績を重ねていきました。
【渋沢栄一】数多くの企業の設立に携わる
渋沢栄一が企業に携わった企業は実に500社にものぼると言われています。
銀行を始め公共機関のガスや交通、食品事業などありとあらゆる業種の企業に携わり、今日の日本経済の基礎を作り上げてきた方でもあります。
以下より誰もが一度は聞いた事がある有名企業を見ていきます。
- 日本鉄道(現在:JR東日本)
- 第一国立銀行(現在:みずほ銀行)
- 東京海上保険会社(現在:東京海上日動)
- 東京瓦斯会社(現在:東京ガス)
- 東京株式取引所(現在:東京証券取引所)
- 田園都市株式会社(現在:東急電鉄、東急不動産)
- 共同運輸会社(現在日本郵船)
などが代表的です。
今日までそしてこれからも企業として在社していくと思ったら、渋沢栄一が行った革命は日本の経済界にとって非常に大きな影響を与えたことが分かりますね。
【渋沢栄一】教育・社会・文化事業に情熱を注ぐ

渋沢栄一は社会・教育・文化事業にもその名を刻んでいます。
経済界だけではなく教育機関や社会公共事業の支援の他にも民間の外交などにも尽力していました。
渋沢栄一は私利よりも公益を優先にした考えを持っており、その思想が評価されて生前に最高の子爵を与えられました。
他にも孤児や貧困で困っている人を保護する養育院を運営し社会事業にも情熱を注いでいました。
1874年から運営に関わり1876年に事務長に任命され、1885年に養育院の事務規定が改正されて養育院長に就任。それ以降大生涯を閉じるまでの間院長を務め続けました。
教育支援においては日本で初の商業を専門に教える学校である商法講習所(現在の一橋大学)の運営や発展に尽力して日本女子大学校校長や東京女学館館長を務めるなどの積極的に当時ではまだ一般的ではなかった女子教育や実業教育を推進していました。
渋沢栄一は民間外交でも重要な役割を担っていました。
特に有名な話が「人形交流」です。日露戦争後に日米関係が悪化したときに修復するために尽力しました。
世界国際児童親善会の米国から1万2千体の「青い目の人形」を日本中に配り、米国に返礼として日本人形を58体贈りました。
文化事業として子供たちの心の交流によって日米の未来に向けての親善友好関係につながる事業になりました。
【渋沢栄一】日本紙幣の肖像の候補者

経済界を始め教育や社会、文化事業など多くの功績を残してこられた方ですから紙幣の顔として選ばれても不思議ではありませんね。
過去には何度も紙幣の肖像者として最終候補まで挙がってはいましたが選ばらなかったようです。
しかし、ようやく2024年度上半期に執行予定の紙幣改定により渋沢栄一の顔が一万円札に使用されることに決まりました。
過去に選ばれなかった理由が・・・↓↓↓こちらもご覧ください
2020年7月15日追記
www.zatugaku.work
2021年6月16日追記
渋沢栄一「青天を衝け」深谷大河ドラマ館へ行って来ました。実際にドラマでも使用された渋沢栄一の中の家(生家)の撮影セットを観たり、血洗島獅子舞を見てきました。
深谷大河ドラマ館のアクセス、入場料、開館期間などの詳細はコチラからご覧ください👇👇
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渋沢栄一のまとめ
- 徳川慶喜の弟である昭武に随行してフランスに渡り、知識や技術を身につけ日本の経済発展に尽くした
- 500社にものぼる数多くの銀行を始め企業の設立に携わり日本の資本主義者の父と呼ばれている
- 経済界を始め教育・社会・文化事業にも積極的に情熱を注ぎ実業家以外の面でも多くの功績を残してきた
- 2024年上半期に執行予定の紙幣改定によりようやく一万円札に使用されることに決まる
日本を代表する人物で実業家としてだけでなく、多くの社会事業にも携わり、活動、支援をしてこられた方です。
過去に渋沢栄一が存在していなければ現代の日本経済の発展は諸外国よりも遅れていたのかもしれません。
渋沢栄一は立派な偉人ですね!
本日も最後までお読み頂きましてありがとうございました。